もっと自然へ、もっと人へ、トレードとともに

トレード
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独身最後の親孝行は、トレードなのです。

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俺達のプロレスラーDX
第186回 たった2年、されど2年~不格好でぎこちない横綱の心意気~/輪島大士
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「神取、聞こえるか?お前は、プロレスの心がない!プロレスは、プロレスを愛する者にしかできない!柔道かぶれのお前に負けてたまるか!」
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1993年4月2日全日本女子プロレスが主催した「史上初の女子オールスター戦」。この大会で後世に語られる伝説の試合を繰り広げた北斗晶と神取忍。試合は大流血戦の末、北斗がカウンターの右フックで3カウントを奪う。試合後、血まみれになり、神取に肩を破壊された北斗はフラフラになりながらマイクで叫んだのがこの発言である。
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実は近年、Twitter上でプロレスファンが某選手を批判する内容に、あの北斗の叫びをなぞらえたかのように「お前のプロレスに心がない」とツイートしていたことで、ふと考え込んでしまったことがある。
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「心のないプロレスラーなんているのか?」
「プロレスの心ってそもそも何なんだ?」
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そもそも論を言うとこんな論議は中身が空洞の抽象論でしかない。それでも言いたい。
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プロレスラーは超人であるが、人間だ。
心のないプロレスラーなんて誰もいない。
ただし、その心の質や性根の良し悪しはあり、心の質にそのプロレスラーの器量と技量が試される。
プロレスは最終的にはその人の人間性なのだと私は考えている。
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冒頭で紹介した北斗の名言にある「プロレスは、プロレスを愛する者しかできない」という定義からすると、もしかしたら彼は異端児であり、邪道なのかもしれない。本来、プロレスの世界にいるべきではないのだ。別世界では「神様」として崇められる地位にいた国民的スターだったのだから…。
プロレスの予備知識があまりない中でプロレスラーになる決断をした男の名は、輪島大士。あの大相撲第54代横綱・輪島である。
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しかし、輪島のプロレスキャリアは実に2年で終わった。彼がプロレスラーだったことを知らない者が増えてきている昨今。彼が引退して来年(2018年)で30年が経つ。もう彼の存在を忘れ去れている中、今こそプロレスラー輪島を考察したいのだ。
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今回は、38歳で角界からプロレス転向を果たした横綱のレスラー人生を追う。
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輪島大士は1948年1月11日石川県七尾市に生まれた。高校から相撲を始めた日本大学に進学すると相撲で2年連続学生横綱に輝くなど実に14このタイトルを獲得。学生相撲横綱という肩書を引っ提げて、1970年に花籠部屋に入門し、角界入りを果たす。
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本名の「輪島」という四股名で鳴り物入りでプロの世界に飛び込んだ輪島は何もかもが型破りだった。幕下二度優勝、初土俵から1年で新入幕入り、2年で大関昇進と駆け足で昇って行った。また雑務は免除され、髷を結える状態まで髪が伸びる前までパーマをあてたり、愛車リンカーンを乗り回したりと今までの角界にはいなかった異端児だった。185cm 132kgとバランスが取れた体格で頭角を現した輪島の型破りな出世街道はまさしく順風満帆。
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現役時代は角界の常識をいくつも破ってきた。学生時代に十両・貴ノ花(後の大関)に稽古で勝ち、いくら学生横綱と言えど関取には敵わないという定説を破る。下手投げの力士は大成しないというジンクスも破り横綱まで昇進した。ランニングは腰を軽くするからと角界ではタブー視されていたが、そんなことはお構いなし。積極的に取り入れた。横綱まで本名を押し通したのも輪島のみである。
【輪島廃業事件/元横綱・輪島の花籠が年寄株を担保に借金をし廃業】
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1973年5月場所を全勝優勝し、わずか初土俵から3年で横綱となった輪島。学生相撲出身初、本名力士初の快挙だった。
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金色のまわしがトレードマークの輪島の武器は「黄金の左」と呼ばれる左からの下手投げ。絶対的強さを誇った北の湖と共に「輪湖時代(りんこじだい)」を築き、国民的スターとなった。
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通算成績673勝234敗85休、幕内最高優勝14回、殊勲賞3回、敢闘賞2回という成績を残した輪島だったが、怪我が相次いだり、体力の衰えが土俵で目立つようになった輪島は1981年3月場所を最後に33歳で引退。その後、師匠の花籠親方を受け継ぎ、花籠親方を襲名し、指導者として道を歩むことになった。
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だが、ここからが型破りな男の波乱万丈の人生が待っていた。
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師匠としていきなり躓いたのは1982年4月に夫人の自殺未遂騒ぎである。原因は花籠の先代遺族との金銭トラブルではないかと言われている。夫人は両方の立場でありまさに板挟み状態だった。さらに花籠の妹が経営していたちゃんこ店が倒産。この店の借金の担保になんと年寄名跡「花籠」を入れていた事が1985年10月25日に判明。事態を重く見た協会は九州場所中に花籠を委員から平年寄へ二階級降格に処した。借金の総額は3億円以上とも言われ、借金の返済を求めて債権者が部屋に集結し騒ぎにもなった。11月中には夫人である先代長女とも離婚。年寄名跡は幸いにも先代夫人が9月中に買い戻していた事が判明したが、5月末から3ヶ月以上も名跡が金融業者の手に渡っていたことになる。12月21日、理事会で花籠の廃業が決定する。
【輪島廃業事件/元横綱・輪島の花籠が年寄株を担保に借金をし廃業】

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花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。
【輪島大士/wikipedia】
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相撲しか知らなかった男はすべてを失った。
だが、男はここで腐ることはなかった。
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「もう一度、俺は這い上がってやる!でも何をすればいいのか…」
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そんなある日、輪島のタニマチとなっていた会社の社長からこんなことを言われた。
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「プロレスに行ったらどうだ?」
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プロレスは中学生の時にテレビで力道山の試合を見たくらいで、それ以上の知識はなかった。もちろん、好きでなければ嫌いではなかった。
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そういえば、俺の後輩にプロレスラーになった男がいたな。
あいつは日本大学相撲部の後輩で、俺と同じく花籠部屋に入り、前頭4枚目まで出世したよな。
角界から去った後に全日本プロレスに入ってプロレスラーに転身したんだよな。
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「そうだ、あいつに相談してみよう」
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ホテルニューオータニで輪島は全日本プロレスの石川孝志に相談した。すると、石川はこう答えてくれた。
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「いいじゃないですか!大丈夫です!」
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輪島は全日本プロレスの総帥・ジャイアント馬場と会談を持った。そこでプロレス入りを打診する。すると馬場からプロレスラーになるための心構えや受け入れ側の条件を説明されたうえで、それでもやる気があるなら来てもいいよという返答された。
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輪島は「もう一度考えさせてもらいます。後援者の人たちとも、よく相談しなければなりませんので…」と答えたという。
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この会談から翌日の1986年4月8日、日刊スポーツの一面はなんと輪島だった。
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「輪島プロレス入り!今週中に発表、今月米国修行=馬場の全日本、12月デビュー」
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この報道に困ったのは輪島本人と全日本だった。まだ話が煮詰まっていなかったからだ。
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輪島は退路を断たれた。
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「こうなったらプロレスラーになるしかない」
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1986年4月13日、東京・永田町・キャピタル東急ホテルで輪島は正式に全日本入団発表を行った。38歳のリスタートの舞台は整った。
だが大相撲から引退して5年、肉体はボロボロ。不安は常に付きまとっていた。
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「だって、プロレスを全然知らないんだもん。それまで相撲しかやってないんだもん。相撲で横綱になって、親方になって、若い衆もたくさんいて、それを全て断ち切って馬場さんのところに入門したわけだから」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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記者会見から数日後の4月18日に輪島と馬場は渡米。馬場と交流のある名レスラーであるパット・オコーナー、ネルソン・ロイヤル、ザ・ファンクス、ザ・デストロイヤーのコーチを受けることになる。ちなみに輪島のプロレス転向によって、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通達する。全日本にとっても輪島のプロレス転向で覚悟を決めたビッグサプライズだったのだ。

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1986年4月13日に全日本プロレス入りを発表した元大相撲横綱の輪島大士は同月18日に馬場&タイガーマスク(三沢)と渡米。19日のルイジアナ州ニューオーリンズにおける『世界タッグ五輪』、20日にはミネソタ州ミネアポリスの『AWAレッスル・ロック』の大会を観戦し、21日に第1修行地のハワイへ。馬場の帰国後は日大相撲部、花籠部屋の後輩にあたる石川敬士(相撲時代の四股名は大ノ海)がトレーニング・パートナーとしてハワイ入りした。
(中略)
全日本の輪島ガードは固かった。相撲の現役当時より20キロもウェートが減っていたために、体が完璧に作られるまで裸の写真撮影は禁止だったし、何より輪島に会って話をすること自体、至難の業だったのだ。
(中略)
いよいよ輪島との対面。子供の頃にテレビで観ていた大横綱だけに緊張したが「日本では知らなかったけど、こっちに来てからバスの乗り方を覚えたんだよ。定期も買ったんだ。買い物だって、ひとりでいけるようになったんだよ」と、ちょっと自慢気にザ・バスの定期券を見せてくれるなど、気さくな人だった。
「ああ、やっぱり大横綱だったんだなあ」と思ったのは一緒に食事をした時。メニューを見ることなく「適当に頼んでくれ」と石川に一言。料理の注文は付人がやるものなのだろう。ただ石川も極力、輪島に自分でやらせるようにはしていた。例えば、自分のバッグが置いてあってもそのまんま。ここで石川はあえて放っておく。すると輪島はハッと気づいたように「ああ、そうか。自分で持たなきゃな。俺もプロレスでは新弟子だから」と慌ててバッグを持つという具合だった。 私のハワイでの取材時間は3日間だったが、輪島と接触できたのは3回だけ。そのうち1回は食事をしただけで、取材はたったの2回だけだった。
(中略)
3回だけの接触でも私は輪島大士という人に好感を持った。国技の頂点に立った人が38歳になって、本気で違う世界に飛び込もうとしている姿を見たからである。私生活でも横綱体質を変えようとしているのもわかった。
「今は朝9時に起きて10時から約2時間、クラークハッチのジムでトレーニングして、その後は食事と昼寝と日なたぼっこ。午後4時から部屋で馬場さんから頂いたプッシュアップ台なんかを使ってのトレーニング。そして晩飯を食って寝るっていう毎日だな。タカシ…じゃなかった石川クンはプロレス界では先輩なんだから、いろいろ話を聞いて、体で一から教えてもらって頑張ろうと思ってるよ!」と笑う輪島は眩しく見えた。
【第154回 ハワイで輪島の初取材(08.4.16)/小佐野景浩 Maikaiプロレスコラム】
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プロレスラーとして生まれ変わろうと努力する輪島だったが決定的な弱点があった。
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身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかった。
【輪島大士/wikipedia】
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それでも輪島はできる限りの努力をし続けた。プロレス転向の会見時には90kgしかなかったが、アメリカ修業期間中にとにかく食べて、練習する毎日を過ごした。炊飯器を持ち込んでおにぎりを食べるのがこの時の習慣となった。また、スポーツトレーナーが作り上げた練習メニューの効果も大きかった。基礎体力、ウェイトトレーニング、水泳をこなし、さらにプロレスの基礎を学び馴染もう輪島の姿に馬場は「よく練習する」と評価していたという。その結果、122kgにまで体重は増加。それはただ太ったというより、きちんと鍛えて作り上げた肉体だった。
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馬場が用意したトレーニング内容はまさしく英才教育。オコーナーやロイヤルといった名プロレスラー達は輪島曰く「横綱の技術」を叩きこんでいった。オコーナーにはプロレス哲学や受け身を、ロイヤルが運営するプロレス学校で基礎を学んだ。練習が終わってコンドミニアムに戻ってはベッドで受け身を繰り返す日々。それでも、受け身の恐怖だけは克服できない。
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「相手は怖くない。受け身が怖いんですよね。踏ん張らないで相手に身を任せた方がいい状況でも、僕なんかは固くなっちゃって身体がガチガチなんです。バーンと受け身を取るところを踏ん張っちゃって、なかなかできないわけですよ」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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1986年8月7日、アメリカ・カンザスシティで輪島は馬場とのコンビでプロレスデビュー戦を行った。この試合で「黄金のまわし」を彷彿させる黄色のショートタイツ、白のリングシューズで登場した輪島は相撲で言うノド輪をプロレス技に改良した「ゴールデン・アームボンバー」で快勝する。

ちなみに輪島が開発したオリジナル技である「ゴールデン・アームボンバー」はその後、田上明がノド輪落とし、セッド・ビシャスがチョークスラムとして進化させ、多くのプロレスラーが使用する大技として今のプロレス界で生き残った。
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輪島がノースカロライナでプロレス修行していた際に、全日本のブッカーを務めていた「馬場の一番弟子」佐藤昭雄の指導を受けている。佐藤は越中詩郎、三沢光晴、冬木弘道、ターザン後藤、川田利明をそれぞれの特性を生かした指導法で育て上げた名伯楽。佐藤は輪島についてこう語る。
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「横綱は人好きのする、人を惹きつける魅力を持った人だよ。
(中略)
元々が猫脊だし、下を向いて稽古しているから"プロレスでリングサイドばっかりを見ていると、2階のお客さんは横綱の頭のてっぺんしか見えないですよ"と。そうしたら"ん!?"っていう顔をしてたから、"横綱、土俵入りをやる時にせり上がって向正面に顔を向けるじゃないですか。そうすると必ず会場の2階の中段ぐらいに目線が行きますから、あの感覚で常にリングの中を歩くんですよ"って。
(中略)
横綱はそう言われると、その場ですぐにやってみる素直さがあったよ。自分の知りたいこと、やりたいことの目標がしっかりしていたよね」
【Gスピリッツ Vol.25 (タツミムック)/辰巳出版】
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準備期間が短いプロレス修行だったが、充実していた輪島。そんなある日、プエルトリコで試合をした時に、輪島はシャワールームでプロレスの師匠・馬場の背中を流した。
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「僕の親方だから、背中流します」
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馬場は「ありがとう」と言ってくれたという。彼にとって忘れられない思い出だ。
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1986年11月1日、石川県七尾市総合体育館で行われた輪島のプロレス日本デビュー戦。地元・七尾市に白のガウン姿で凱旋した輪島は"インドの狂虎"タイガー・ジェット・シンを相手に日本デビューを飾った。5分55秒、両者反則で終わったものの、ゴールデンタイムで放映されたテレビ中継は高視聴率を獲得。(ニールセン調べ=23・5%、ビデオリサーチ調べ=17・7%)こうして、プロレスラー輪島が誕生したのである。
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「本当にすべてに感謝でした。試合後に馬場さんに褒められて、涙がパッと出てね。打ち上げパーティーでは"よかったね"って馬場さんの奥さんが泣いて。そういう感動は一生忘れませんよ」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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シン戦後、再びアメリカに渡り試合経験を積み、1987年1月から日本に定着した輪島はその知名度でテレビ中継の視聴率と観客動員数に大いに貢献する。だがこんな声もちらちらと聞こえてくるのだった。
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「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。
【輪島大士/wikipedia】
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大相撲時代の型破りな行動やプロレス入りの経緯も含めて何かと叩かれやすいのが輪島だった。一部では輪島の人気に師匠である馬場が嫉妬したという話もあがった。またその試合運びがあまりにもぎこちなくロボットのようにガチガチになっていたのも、低評価に繋がっていた。
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だが、実はプロレス関係者はこの輪島を評価していた。どんなに悪評を叩かれても努力を積み重ねようとする輪島の姿を皆、ちゃんと見ていたのだ。
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長州力(ジャパン・プロレスとして全日本に参戦)
「輪島は一生懸命やっていた」
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仲田龍(元・全日本プロレスリングアナウンサー)
「世間での評価は低いですけど、輪島さんは頑張っていましたよ。努力してましたもん。もちろん練習もしてましたし。
(中略)
努力してる部分は外の人からは見えないですからね、そばにいる人じゃないと。でも、僕らは努力してるのは知ってましたから。僕は輪島さんは素晴らしかったと思いますよ。だって、すごい下の人たちにも気を使ってましたね。呼び捨てはなかったですもんね、誰に対しても。
(中略)
ホントに謙虚でしたよ。例えば、プロレスに関しては、自分よりも若い人…たとえば渕(正信)さんからのアドバイスとか、年下の人にもちゃんと謙虚に耳を傾けてましたからね」
【NOAHを創った男 -三沢光晴の参謀- 仲田龍・本多誠/ベースボール・マガジン社】
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ザ・グレート・カブキ(当時全日本プロレスに在籍)
「横綱は毎日練習していました。飲み込みが早いし、自分から練習しようとする努力型でした」
【1964年のジャイアント馬場 柳澤健/双葉社】
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元々プロレスを知らなかった輪島自身もプロレスに触れることで、プロレスへの愛着が強くなっていった。
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「私も初めはプロレスをショー的なものだと思っていたけれども、いざ自分がやってみたら、プロレスはそんなもんじゃないと。それに相撲と違って試合時間が長いでしょ? それを自分で工夫をして、考えながら、自分の哲学でやるわけだから。相撲は相撲で辛いけど、プロレスはプロレスで辛いものがある。だから、"何だ、プロレスは"って言う奴は馬鹿なの。やっぱり相撲には相撲の哲学があり、プロレスにはプロレスの哲学がある。プロレスはいわゆるショーじゃないんですよ。それを私はヒシヒシと感じましたね」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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そして、輪島のプロレス時代を支えた仲間達への感謝の気持ちを忘れていない。
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「みんな仲間でしたよ。全日本の選手はみんな"横綱!"って言って可愛がってくれる、教えてくれる。カブキさんとか亡くなった鶴田さんとかね。カブキさんは教え方がうまいんですよ。"横綱、相撲じゃないんだよ。こうなんだよ"って。天龍選手、石川君にしても"横綱"って言ってくれた。プロレスに入っても、立ててくれたことに感謝してますよ。
(中略)
彼らが何年も苦労して覚えたことを、たったの1~2年で教えてくれるわけです。みんなカッコつけないで、"横綱、プロレスはこうなんだよ"って。よく天龍選手も励ましてくれたし、馬場さんのところに入って本当によかったなと思いましたよ」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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NWA世界ヘビー級王者リック・フレアーへの挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級王座決定戦、ジャンボ鶴田とのコンビでロード・ウォリアーズと対戦などマッチメイクも優遇されていた輪島だったが、本当の輪島の凄さがまだプロレスで出ていないと考えていたのは天龍源一郎だった。
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1987年春、長州力を中心としたジャパン・プロレス勢が全日本を撤退し、新日本にUターンしていった中で、勢いが落ちていきかけていた全日本の現状に憂いていたのが鶴田のパートナーだった天龍だった。
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「ジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れた」
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天龍はこう言い放ち、阿修羅・原と共に全日本を活性化させるために「天龍革命」を始動させた。天龍のターゲットは鶴田と輪島だった。
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「輪島さんは…ハンセンとかシンとか、みんなが適当に合わせて試合をやってて、本人は分からないからそれでいいと思っている。それを全日本の奴らも本人の前では"横綱"と呼んで立てているのに裏で笑って見てるわけでしょ。俺にしたら相撲の横綱を舐めるなよって気持ちがあったよね。それなら同じ相撲上がりの俺が輪島さんの凄さを引き出してやるよ」
【天龍同盟十五年闘争 小佐野景浩/日本スポーツ出版社】
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天龍はとことんタッグマッチで輪島を潰しにかかる。輪島の劣勢は続く、反撃を試みても、どこか空振りしてしまう。実況も奮起を期待していたのか、本音なのかは分からないが輪島への厳しい論調が続いた。
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「どうした!輪島!」
「やり返してみろ!輪島!」
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だが、当の本人はとにかく無我夢中だったという。
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「確かに悔しかったけど、心の中で仲間だと思っていたからな」
【Gスピリッツ Vol.22 (タツミムック)/辰巳出版】
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実は天龍にとって輪島は特別な存在だった。同じ北陸出身で、同世代の横綱だった輪島から角界時代に「同じ北陸三県だから頑張ろう」と声をかけられたことを忘れない。また、成績不振で悩んでいた横綱・輪島をアメリカでプロレス修行していた頃の天龍が国際電話で激励したという。「一番強い」のは輪島」だと天龍は語ったこともあった。だからこそ、天龍は輪島の凄さを引き出したいと考えて、敢えて"輪島叩き"に徹したのだ。
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「俺は相撲をやってきて人間の額の強さを知っていたからね。横綱はあれくらいじゃ壊れないと知っていたからガンガンやったよ」
【相撲とプロレス、天龍と輪島|ローリング・ドリーマーのプロレス・ブログ】
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「天龍の輪島への攻めはイジメみたいだって言われたけどさ、きっと輪島さん自身は"まっ、同じ相撲出の天龍にやられるのは仕方ないか"ぐらいにしか思ってなかったんじゃないの(苦笑)。
(中略)
輪島さんが容赦ない攻めを必死に凌ごうと向かってきたからこそ、俺達も光れたと思っているよ。その意味じゃ感謝してるよ」
【天龍同盟十五年闘争 小佐野景浩/日本スポーツ出版社】
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「何十年もプロレスをやってる俺達がこれだけ攻めても、たかだか1~2年のキャリアしかない輪島大士はギブアップしないんだよ。それが横綱まで行った人の強さなんだよっていうのはスポットライトを当てさせたかったんだけど、そこまで行かなかったんだよね。
(中略)
本当は"こんなにタフな輪島"っていうのを理解してほしかったんだけどね」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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そして1987年11月7日後楽園ホールで行われた天龍と輪島のシングルマッチ。天龍は輪島の顔面を再三、蹴りまくった。輪島の顔面にはレスリングシューズの靴紐の跡がつくほどに…。
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両者初のシングル対決となったのは、輪島の国内デビュー戦から約1年後となる'87年11月7日、後楽園ホール。この試合で天龍は輪島の脚に攻撃を集中し、ふくらはぎ、膝裏、内ももを蹴りまくった。輪島が最後、場外で立てなくなったとき、その太ももはどす黒く腫れ上がっていた。16分18秒、なすすべなくリングアウト負けとなった輪島だが、激しい蹴りを受けながらも立ち上がり続けた姿は、これまでの優遇された立場での試合とは一味も二味も異なっていた。団体がお膳立てした“身の丈に合わない好勝負”に愛想を尽かしていたファンにとって、この一戦は輪島を見直すきっかけともなった。
【プロレス解体新書 ROUND35 〈天龍式“輪島育成計画”〉 特別待遇の元横綱を公開リンチ/週刊実話】
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この試合をテレビで見て衝撃を受けたのが当時新日本に参戦していたUWFの前田日明だった。
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「シューズの紐の痕がつくくらい天龍さんは輪島さん蹴ってたでしょう。あれは俺でも躊躇しますよ。なんちゅうことやっとんねんと思いましたよ」
【相撲とプロレス、天龍と輪島|ローリング・ドリーマーのプロレス・ブログ】
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「これはヤバイ。あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」
【輪島大士/wikipedia】
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天龍の非情なる攻めとそれに耐える輪島の姿に衝撃を受けた前田は後に長州顔面蹴撃事件を起こしている。前田としては長州と「天龍VS輪島」よりも凄い試合をするしかないと考えたのだが、それが思わぬ方向に動いてしまったのが長州顔面蹴撃事件へと繋がってしまったのだ。
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この試合を見たジャイアント馬場は輪島を酷評した。
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「デビューしてからの輪島は最初は良かったんですけど。だんだん稽古しなくなりましたね。これはやっぱり致命傷だと思うんですよね。こういう風にやられるということは全くね、お恥ずかしい話ですよ」
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これは輪島への本音だったのか、叱咤激励だったのか、嫉妬だったのか、真意は不明だが、敢えて鬼になる事で輪島の奮起を期待したのかもしれない。
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だがそんな馬場が輪島を絶賛した試合があった。
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1987年10月16日大阪府立体育会館で行われたPWF世界タッグ戦。輪島は鶴田とのコンビで王者である天龍と原の龍原砲に挑戦した。試合は序盤から輪島は天龍と原の猛攻を受け続けた。輪島の攻めは不発していくばかり。さらに足を痛めていた輪島は天龍と原に足への一カ所集中攻撃も受ける羽目に。パートナーの鶴田はどこか輪島を突き放すようにカットプレーにも入らない。会場から失笑がもれ、ヤジも飛んでいた。
だが、終盤になると輪島の意地が爆発する。
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天龍が鶴田に得意技のパワーボムを決めた時だった。カットするために飛び込んだ輪島が鶴田を救うために天龍に見舞ったのがなんと往復ビンタ。それは"怒涛の攻め"で天龍がダウンしても止むことはなかった。ここから輪島は何かに取りつかれたかのように覚醒していく。天龍のキックやチョップ、ショートレンジのラリアットにも動じず、張り手の連発で応戦。しまいには天龍を場外に吹っ飛ばしたぶちかましはまるで今でいうところのスピアー。体ごと天龍に玉砕覚悟で突撃していく姿に場内は輪島に大歓声を送った。
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解説席にいた馬場は輪島を絶賛した。
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「もう、輪島のこの気持ちで十分なんですよ」
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試合はリングアウトで敗れたが、横綱の凄みとどん底に落ちた輪島大士の意地を満天下に見せつけた。
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「泥臭くても、カッコ悪くても、不格好でぎこちなくてもいいじゃないか!」
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この試合はそんな輪島の叫びが聞こえてくるような名勝負だった。
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1987年の世界最強タッグ決定リーグ戦に輪島は馬場とのコンビでエントリーし、5勝5敗1分の11点で7位という成績に終わった。
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だが翌1988年になると輪島の活躍があまり聞かれなくなった。2月に第5頸椎骨折で入院し、シリーズを欠場することになる。復帰後も精彩を欠いたファイトが続き、試合もメインイベントから外れ、中堅クラスでの試合が多くなった。
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そんな輪島の扱いに不満を覚えていたのがプロレス入りした輪島をずっと支えてきた石川だった。
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「それからしばらく経ったら会社の中で横綱の扱いが良くなくなって、自分はイライラして…」
【Gスピリッツ Vol.22 (タツミムック)/辰巳出版】
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だが、輪島の想いは違った。
それ以前に体力が限界を迎えていたのだ。
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「そんなね、続けるものじゃないし、死んじゃいますよ。だから、相撲と一緒です。体力の限界ですよ」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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輪島は石川に引退することを告げる。すると石川から思わぬ返答が…。
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「俺も引退しますよ」
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輪島はビックリしたが、石川には輪島に対する会社の扱いの低さに怒りを覚え、プロレスを辞めたいと考えていたのだ。
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1987年12月16日、輪島はザ・グレート・カブキと組んで、クラッシャー・ブラックウェル&フィル・ヒッカーマンと対戦し、輪島はゴールデン・アームボンバーでヒッカーマンを破った。そして、この試合が輪島の引退試合となった。ファンに引退の挨拶をすることなく、彼はリングを去っていった。
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この試合後、輪島は石川と共に馬場に辞意を伝えた。
驚いたのは馬場を筆頭とした全日本の仲間達だった。
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この時の状況について天龍は後にこう語っている。
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「僕はあるとき、会社に行ったら、(ジャイアント)馬場さんが『おい天龍、輪島がやめるんだよ』って。『えっ?』って言って、『やめたら、だめじゃないですか、今までしょっちゅう戦ってたんだから、やめたらだめじゃないですか』って言ったら、『いやあ、もう、頭がかたくてだめなんだよ』って(笑)。僕が『どうにかならないですか』って言ったら、『おまえ、連絡とれるか』、『電話してみますよ』って言って、輪島さんのとこに3回ぐらい電話したけど、まあ出なかったんですけどね。で、馬場さんは『天龍、うまく引きとめてくれよ』って言って、『じゃあおれはハワイ行くから』って、そのまま馬場さんはハワイに行っちゃったんですよ。それで、馬場さんはハワイに行くわ、輪島さんには連絡とれないわって、結局宙に浮いちゃったんだけど、もうどうしようもないやって、(馬場が)帰ってきたときに『連絡つかなかったです』って電話したけど、結局そのままになっちゃったんですけどね」
【Versus 天龍源一郎vs輪島大士対談その1/合同会社ハルクアップブログ 】
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こうして輪島は2年間のプロレス生活に別れを告げた。
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プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する。
(中略)
その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の鮮魚販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場している。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。
(中略)
2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。大相撲九州場所13日目の2015年11月20日、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、直腸癌による多臓器不全により62歳で死去。翌日の11月21日、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた。
【輪島大士/wikipedia】
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私はずっとある疑問を抱いていた。
輪島にとってプロレス時代は"黒歴史"だったのか。
プロレス引退後、輪島がメディアや公の場でプロレスについて語る機会はあまりなかった。決して成功したとはいえない輪島の短いレスラー人生。思い出したくないのも無理もない。口を閉ざしたい、語りたくない気持ちも分からなくない。
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だが、輪島本人はプロレス時代を誇りを持っていたのだ。
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「結局、輪島=横綱なんですよ。相撲から始まって、そこからプロレス。馬場さんの哲学を学んで、そして第三の人生として一般社会でいろんな勉強をして、今現在がある。
(中略)
生きていく中でいろんな出会いがあって、僕は幸運な男なんです。面白い人生ですよ。輪島の人生は波乱万丈なんです。他の人の人生の何倍かを生きてきたっていう感じがするね。まぁ、それには感謝ですよ。疲れたけど(苦笑)。僕の人生の1ページ目はもちろん相撲、2ページ目がプロレス、一般社会の中で社会人としてやっているのが今の3ページ目ね。
(中略)
プロレスにしても期間は2年間かもしれないけど。相撲とはまた違った意味で思い出深いんですよ」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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だけど、プロレスに対する悔いだってある。
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「やっぱりプロレスに入った以上、1回はチャンピオンになりたかった。それだけ。それが馬場さんへの恩返しだと思ってたけど、身体が付いていかなかったのが残念だったなぁ…っていうのが本心。
(中略)
リック・フレアーにも勝ちたかった、スタン・ハンセンにも勝ちたかった、ロード・ウォリアーズにも勝ちたかった。でも、みんな負けてる。僕は相撲のグランドチャンピオンだけど、プロレスでもチャンピオンになりたいっていう夢があったよ。それが叶わないで辞めたってことは、凄く残念だなあと。
(中略)
相撲のグランドチャンピオンだからって、プロレスのグランドチャンピオンになれるほど甘くないって、人生は。後は何もない。悔いはないね」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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「相撲のグランドチャンピオンだからって、プロレスのグランドチャンピオンになれるほど甘くない」という発言はあまりにも心に深く刺さる言霊である。
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そして、輪島はプロレスの師匠・馬場への感謝の気持ちを持ち続けている。馬場が亡くなった時、輪島はアメリカン・フットボールの祭典「スーパーボウル」を観戦するために渡米していた。帰国後、葬式には参列できなかったが、後日、馬場の自宅まで出向き最後の挨拶をしていたという。
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「プロレス入りする前、馬場さんは僕のパーティーに来てくれたり、ハワイで一緒にゴルフをやったり。それがまさか馬場さんのところに自分が入るとは思っていなかったけど、縁があったんでしょうね。
(中略)
馬場さんとの思い出は、一冊の本になるくらいありますよ。懐かしいなあ。青春だったね。あれは旅行に行くっていう感じだったよ。それも厳しい旅行に。自分の人生っていう旅行なんだから。プロレスに入ったことは無駄じゃなかったと思いますよ」
【Gスピリッツ Vol.10 (タツミムック)/辰巳出版】
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たった2年で終わった輪島のレスラー人生。
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全てを失った男が裸一貫で出直しために選んだプロレスラーという職業。プロレスに賭けていたからこそ、練習の虫となった。業界に馴染むために、自分を変えようとするために、横綱という誇りを捨て、ある時は強さと凄さを見せるために、横綱の意地を見せつけてきた。不格好でもカッコ悪くても、失笑や罵声を浴びても、どんな攻撃を食らっても最後の最後までリング上で輪島はギブアップしなかった。そして、真摯にプロレスに打ち込む姿勢に心を打たれた者達が多かったのも事実だ。

されど濃密な2年を生きた輪島のレスラー人生。
決してプロレスが上手かったわけではない。
プロレスの技術があったわけでも、プロレスに馴染んでいたわけではない。
しかし、この男のプロレスには、まるで"演歌"のように人々の胸を熱くさせる横綱の心意気があった。
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「逆境という言葉は好きじゃない。みんなこういう時代に踏ん張って生きているんだから。"自分だけが苦しい。逆境だ"なんて思わずに、自分を信じて仕事をすればいいんだよ。人生なんてご飯と一緒。おいしい時もまずい時もあるんだからさ」
【逆境をゆく 輪島大士/朝日新聞 2010年10月26日】

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輪島のレスラー人生を追うと、「お前は、プロレスの心がない!プロレスは、プロレスを愛する者にしかできない!」なんて言葉は口が裂けても言えない。
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「お前に、俺のプロレスができるのか!」
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輪島のプロレスに北斗晶の名言は当てはまらない。
当時は評価されなかったかもしれないが、実に潔く立派に務めあげた"心に沁みる"レスラー人生だった。
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たった2年、されど2年。
波乱万丈の人生を生きてきた輪島大士のプロレスには「人間の底力はこんなに凄いんだ」というウルトラソウルに満ちている。
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輪島さん、あなたは凄いプロレスラーでしたよ…。
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それは、今週からやってる諸先輩方真似っこ、トレードシナリオの作り込み‼️

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