• ホーム
  • 格下
  • 格下の特集だよ♪可愛いのもいっぱいあるよ♪

格下の特集だよ♪可愛いのもいっぱいあるよ♪

格下
Pocket

「人間関係がうまくいかない…」と思ったときに試してみたい5つの格下

宮原誠一の神社見聞牒(052)
平成30年(2018年)03月14日

No.52 影の安徳天皇潜行の地・佐賀県鳥栖市の下野水天宮 ⑬

1.平知盛ご一行・鷺野ヶ原(現佐賀県鳥栖市下野)に上陸
玄暦元年(1184)、壇ノ浦の敗戦により、平知盛は、建礼門院徳子、二位尼平時子とともに安徳天皇を奉じて、按察使局も供にして、豊前に上陸し、筑後竹野村平に入った。さらに、ご一行は久留米市大橋町常持まで落ち、庄前(しょうのまえ)から舟に乗り、鷺野ヶ原(現佐賀県鳥栖市下野)に上陸。天皇は28歳で崩御。御亡骸は、篠山に斂(おさ)め、同市京町の日輪寺(安徳天皇の陵がある)を菩提寺とした。按察使局は落飾し千代尼となり、筑後川のほとり鷺野ヶ原(さぎのがはら)の一隅に小祠を建て、冥福を祈った。この祠を尼御前社といった。建久年間(1190-1199年)のことである。

福岡県神社誌中巻
久留米・水天宮
住 所  福岡県久留米市瀬下町265
祭 神  安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼時子、天御中主命
由 緒(一部)
安徳天皇御事蹟に就き 社伝に曰く
当県 山本郡 山本村 観興寺 所蔵の繪縁記に「草野永平発心嶽に拠て赤族党を防ぐ国あり、源頼朝永平が平家追討の功を賞せし事東鑑に見えたり。」と云う。
玄暦元(1184)年三月 天皇御入水となり、平智盛父子三人 その臣 彌兵衛宗清 伊賀 平 内左衛門家長等を討つ。二位尼按察使局等と共に、主上を守護し奉り 豊前国小倉に上陸 筑前国八町峠を越え 筑後川を渡り草野に着給う。
その頃 永平は緒方紕義一味たるに依り俄かに兵を出して、取囲む家長、主上を落とし奉り、錦の真垂れを着用し 平家大将知盛と名乗て突撃し、遂に其処にて討死せり。その墓 竹野郡平村にあり。里民 知盛塚と号す。その隙に主上は常持村まで落ち延び給う。庄の前より御船に召され 宮の陣に着給う。此処より久留米笹山の館に勅使下され 松田某即刻出迎奉る。小森野より御上陸 松田某の館へ入御あり、その後 三瀦郡城口村(この城口村にその頃松田某の別荘あり)に徒御、遂に此所にて崩御あり。御實算二十八歳 御尊骸を久留米城二の丸の内に納め奉る。
2.影の安徳天皇
壇の浦の戦いに破れた平家は日本全国に散らばり、その落人伝説は数多く残されており、また安徳天皇帝の潜幸説は全国数箇所にあるようだ。
久留米市史の筑後平家物語には、安徳天皇潜幸説について、多くの文書が残されている。
当時は、写真もなく、代理、身代わり、替え玉、影武者は頻繁に行われていた。

屋島で身代わりの安徳天皇となった影の安徳天皇は二位尼や平知盛らと共に小倉に上陸し、八丁越え(嘉穂-甘木)で、平家の荘園・福岡県田主丸平(旧竹野村平)に逃れた。支援したのは元平家方武将の草野城主草野太郎永平であった。
源氏の間者通報にて、安徳天皇ご一行が竹野村平に逃げ込んだ事を知った源氏方は、草野永平に平知盛を討ち取るように指示。草野家は夜襲を決行したが、平家の館には切り込まず遠巻きにして攻めるのをとどまったという。
そこに忠臣の伊賀平内左衛門家長が平知盛の身代わりとなり討死し、巨瀬川のほとりの庄前に逃れる。現在、田主丸町隈に平神社(平知盛の墓伝)がある。伊賀家長は、平知盛の乳母の子であり、乳兄弟で平知盛が信頼した人物だった。
草野家家臣によって引導され、常持村庄前に到着。待機していた小船で筑後川を下る。
二位尼は、船着場そばの「庄の前宮」(現:庄前神社)にて、ご一行の安全を祈願し愛用の手鏡を奉納している。
小船十数艘で巨勢川を出て、千歳川(現筑後川)に下り、久留米の北、高野の原に到着した。
身代わり安徳天皇は、藤吉種継の娘、千代姫(玉江姫)を妻とした。二人の間に男の子が誕生し、小笹山(現在久留米市篠山)の館を改築して帝親子を移転させた。不審に思った者の通報により、太宰府から駆けつけた兵が館を取り囲み、安徳天皇は逃避行を余儀なくされる。生まれた男子は、仏門に入り、大善寺町の朝日寺を開山し神子栄尊と称している。
源氏の追求が厳しく、松田栄之丈の計らいで白口村(荒木村白口)にある松田の館に移った。現在の白鳥神社である。
安徳天皇は、28歳で天然痘にかかり崩御。遺骸は篠山に埋葬され、菩提寺は日輪寺とされている。

平知盛ご一行がたどり着いた鷺野ヶ原(現佐賀県鳥栖市下野)の下野村は平家の村である。
筑後地方の平家伝説に係わる古文書の持ち主の立石氏が佐賀県鳥栖市下野に住んでおられる。立石氏の父が、先祖伝来の古文書を佐賀県史跡調査員に公表され、その内容が平家研究者の間に密かに広まっている。
内容は、壇ノ浦で入水された安徳帝は身替りで、実は鷺野ヶ原まで落ちられ、藤吉種継が密かに守護し、18歳の時、種継の娘千代姫との間に男子をもうけられ、それが後の神子栄尊禅師であるという。
古文書は、
 下野水天宮の由来
 帝の身替りの事
 崩御の日付並に御陵
 宮屋敷の事
 水天宮の御神体並お守札
 平知時の墓
 神子栄尊禅師の事
 建礼門院自言自筆
 小竹祭の由来
 立石家据置記
 平氏一族の御陵秘密
等とされている。
川添いの堤防の下に下野水天宮がある。村の人は「宮屋敷」という。昔はこの一帯は高地で大木が茂っていたらしい。帝が一時ここにお住いになられたので「宮屋敷」という。
帝はここに隠棲され、御歳25歳で崩御されたという。帝のご陵は密かに村の中央に築き、欺くため土盛りの上に老松神社を祀っている。更に村の出入り口の場所に、建礼門院の墓、平知時の墓、二位尼の墓が竹木立の中にあるという。
源氏の追討を欺くため、鷺野ヶ原の対岸にある小笹山(現在の久留米市篠山)にもご在所を建築している。
3.老松神社と下野水天宮
久留米水天宮と筑後川を挟んで対岸となる佐賀県鳥栖市下野も安徳天皇潜幸の地といわれ、下野水天宮は安徳天皇を祀り、帝と一行の生活を書いた伝記や所持品の目録、印鑑なども残っているという。近くにある老松神社の土盛りは天皇の御陵と伝え、土盛りの上に老松神社が鎮座する。

下野水天宮 佐賀県鳥栖市下野町718

下野水天宮(安徳帝御替行伝説の地)
文治元年(1185年)、壇の浦の一戦に敗れた平家方は各地に逃散し"落人伝説″を残している。「下野水天宮由来史」によれば、「安徳帝は従者と共に下野にのがれ、この地で一生を終えられた。」(二十五才・天然痘で死亡)というのがそのあらましで、この水天宮は帝を祀るものと伝えられている。下野における帝と一行の生活を書いた伝記や所持品の目録・木彫りの印鑑などのほか、帝の御在所跡といわれる宮屋敷・三条通・四郎丸などの地名が残っている。五月五日は、帝の霊を弔う小竹祭が行われている。
                  昭和61年6月吉日 鳥栖市教育委員会
下野老松神社
下野村の南の入り口から真っ直ぐに北に進むと、老松神社に行き当たる。土盛りの墳丘があり、その上に老松神社が鎮座する。この墳丘は影の安徳天皇の御陵といわれる
私は当初、下野町(村)に入った時に、村の中央の老松神社に行き当った。神社のたたずまいは普通の神社である。しかし、社殿が鎮座する土地は、古墳のように盛りあがっている。古墳の上に神社があるのかと思った。平地にぽっくりと土盛りになっている。どう見ても自然ではない。神殿を見てすぐに分かった。土盛りは確かに墓の墳丘であるが、神殿は仏堂の趣がある。この神社は普通ではない。安徳帝御替行伝説を思うと、ここが帝の終焉の地だと思った。
そして、下野水天宮を捜した。が、見当たらない。村の北方にあるはずである。しかし、車で行き着くことが出来なかった。あきらめて、村の東の堤防を北上し帰っている時、左の堤防の下に神社の鳥居がちらりと見えるではないか。社殿は木立に覆われて見えない。すぐに、社頭に下り降りた。何と物静かな境内であろう。一般神社のような活気と明るさがない。
一通りの社地社殿を見終って、ふと思った。この神社は社頭に接する付け参道がない。村の方々はどこから境内に入られたのであろうか。鳥居の先を見ると一軒の住宅が建ち塞がっている。そして、周りはブロックの壁があるが、庭先だけはブロックの壁がない。
私は思った。昔は、村人はこの住宅の庭を通って境内に入られたのであろうと。また、この家は境内に入る人の監視役も務めておられたのであろうと。
この神社・下野水天宮は秘密の神社であった。
4.下野水天宮の祭事
5月5日の小竹祭の祭事を拝見できた。
大幟の椿の紋も印象的で、幔幕の椿の紋は、さらにカラフルでダイナミックでした。もの静かな神社が急に明るくなった感であった。11時頃までに、拝殿内での祭事が村の方々によって行われ、その後は幔幕も外され、社殿の窓扉は全て閉じられ、普段の状態に戻された。
そして、鳥居の外下で、神事の準備が、担当組の方々により行なわれ、祝詞奏上と普通の儀式が進み、終了した。
随分と一般神社とは異なる神事形式でした。普通は拝殿にて、祝詞奏上と儀式は終わるのだが、社殿の窓扉は全て閉じられ、鳥居の下での祝詞奏上の儀式であった。
まるで、安徳帝の霊を封じ込める儀式かのように見える。やはり、この神社は普通の神社ではないと思った

境内には多くの椿の木が植えられ、社殿を覆い尽くすほどである。すぐ東にある堤防から見ても社殿は見えない。代理の安徳天皇と藤吉種継の娘・千代姫(玉江姫)との物語から「椿」紋が生まれたのか、私にはまだ分からない。椿は物部の祖・猿田彦大神が使用される。椿紋と橘紋は構図があまりにも似通っていて、花つぼみが橘から椿に変わっただけだ。水天宮社紋の椿は橘紋を修飾して椿の紋に仕立てと聞く。椿紋は橘紋を土台にして造られているのだ。その橘紋は、熊本県菊池から真木姓初代宮司の平忠左衛門重臣によって持ち込まれたものではなかろうか。すると、平忠左衛門は熊本県菊池の橘族の流れということになる。
さらに、下野水天宮の神紋は「十五菊」で、天皇家が使用される「十六菊」ではないのだ。「十六葉菊」以外を使用する菊紋は亜流天皇家の紋である。この紋でも、影の安徳天皇の存在を仄(ほの)めかしている。
社殿の後ろ裏には、水天宮らしく、龍王社が祀られていた。本来の水天宮は水天八大龍王と罔象女神を祀る。高西郷水天宮の祭神は、平家一門(安徳天皇、巨瀬入道平清盛、二位尼)を祀ると同時に古宮の水天宮を合わせ祀って水天宮としている。
5.真の安徳天皇と影の安徳天皇
真の安徳天皇と影の安徳天皇について、百嶋先生の講演資料が残っている。

「玉名・山鹿・菊池の神々」講演 2012年2月5日
本当の安徳天皇、安徳天皇の代理の安徳天皇、お二人とも死んでおられません。
本当の安徳天皇は、最初対馬におられましたけれども、後に薩南諸島の喜界島の方にお移りになって、向こうの方で通称、長浜(ながはま)と名乗っておられました。
私の先祖(筑後黒木城の一族)が、後鳥羽天皇からのお便り(御しんかん)を後鳥羽天皇のお兄さんである安徳天皇に直接お渡ししたのがきっかけで、この安徳天皇、後鳥羽天皇、南朝の天皇ともあの世に行かれるまで、数年前までずぅっと年賀でお付き合いしていました。
南朝天皇のお兄さん方は栃木県に住んでおられます。戸塚様と申し上げます。そして、弟さんの方は名古屋地区に住んでおられまして、熊沢様と申し上げます。
どちらも関係がありまして、私達の一族が天胤を腹に宿して帰ってきたのは天正年間(1573)です。そして、その子孫達は、佐賀の鹿島、熊本の玉名と筑後の黒木に名前を変えて住んでおります。

本当の安徳天皇及び代理の安徳天皇をお送りした時の総支配人である平知盛公の歌『とけん(杜鵑)啼く、みひとつに下るあめあられ、つもるこころをしるひともなく』
杜鵑とは、ほととぎすのことです。ともかく総支配人である自分(平知盛公)もたまらんけれども、代理の安徳天皇も、本当に逃げる安徳天皇もたまらんだろうな。という平家の哀れを謳った歌が安徳天皇の直系の子孫の家に残っているのです。
私は、これらの平家の御子孫、嫡孫の方々とやり取りした書簡・資料などを全て、「平家の残党を守る平家の会」が三重県にございますが、そこに寄贈いたしました。

そのなかの資料。
『寿永2年(1183)、密談の上、評議は一決した。第一回目の西国落ち、その時、本当の安徳天皇は8歳、元暦2年(1185)3月7日、諸詮議をして、東国の軍勢との直接対決は不利との答えを出し、かくて再度の都落ちと相成った。平宗盛は諸侯への手配を新大納言知盛に一任した。
帝の身代わりとして、清宗の息子、実は平時房の女(むすめ)の「かせの君」7歳を用意した。そして、身代わりの安徳天皇は吉日を選んで、8904人に護られて、極秘裏に瀬戸内海を西海に向けて出発した。
一方、資盛(すけもり)は正三位左大将兼征夷大将軍に任じられ、若いながらも、おじの知盛に代わって、安徳天皇防護の大任を帯びることとなった。そして彼の主従304名は日向方面を目指して、屋島の陣を出発して、翌16日伊予の高島に到着した。ここで、小船700余艘に乗り換えて、一千余名の雑兵も新たに平家方に加わった。そこで熊本の菊池次郎ユキヨシという国人が海の航路の案内を仕った。そして、軍備兵糧も雑務も整えた。資盛と業盛(なりもり)は「長安てんふの故事」に習い、船団を津々浦々に寄せ、元暦2年(1185)ようやく硫黄島の長浜に到着なさった。御座船から浜にお移りになった帝は海水にてお手を洗われ、早速、浜に大きな幕をお張りになった。その翌日から、その場所を黒木御所とおよびして造営が始まった』。

(注) 平清宗(たいらのきよむね)は、平安時代末期の武将で、平家の棟梁平宗盛の長子で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・建春門院の同母妹である平清子。
6.歴史の秘密はいつまで耐え得るか
神社には、誇り高き氏神様を正面から堂々と祀る神社、氏神様の神名を明かさずに密かに祀る神社、表向きと本当の祭神が異なって秘密を通す神社、祭神鎮魂の神社と様々である。

氏神様の神名を明かさずに密かに祀る神社は、歴史上から、やむをえずそうなったのであろう。それは奉斎氏子さんが知っておられれば良い事であろう。それでも、時の流れは、いつまでも、そのままの状態にしておくことはない。戦後、民主主義となった日本で、宗教信条の自由、言論の自由が保障され、それなりの歴史的理解が得られれば、それなりの事実の公開に切り替えてもよいのではないか。放置すれば疑心暗鬼を生む恐れがある。

表向きと本当の祭神が異なって秘密を通す神社も同様である。権力・武力の介入の歴史的過程があり、どうしても祭神のすり替えを行なわざるをえなかった。それを秘密にしなければならなかった。そういう事情もあったことだろう。しかし、時の流れは、いつまでも、そのままの状態にしておくことはない。

私の村神社・玉垂神社も、表向きと本当の祭神が異なっていた。
鎌倉時代初期、この地の領主草野家により、無理に八幡神の追神を余議なくされた。そこで、本尊の神名を柳瀬大菩薩と、社号も柳瀬神社と変え、神社の性格が分からないようにした。明治になって、社格を郷社から村社に格下げしてもらい、配神から八幡神を外し、もとの社号の玉垂神社に戻し、遷座し、新しい社殿に造り変えた。しかし、祭神名は「武内宿禰」とされた。実際の祭神とは、まだ異なっていた。
戦後になり、神社も宗教法人として扱われ、登録された内容が、社号は「玉垂命神社」、祭神名は「武内宿禰」のままであった。神殿の神銘盤には「玉垂神社」と刻まれているにもかかわらず、である。
昭和30年代に至って、拝殿の前の大きな神額には「玉垂神社」と掲げられた。それでも本当の祭神名は分からなかった。
最近に至り、本当の祭神が分った。主祭神は中央に女性神「神功皇后(息長足比売命)」である。さらに、脇神が二人おられ、これも女性の神様であった。なんと女性の神様が三人祀られていたのである。二人の女神は神功皇后の妹とされる方である。一人は、古事記に出て来る虚空津比売(そらつひめ)である。高良玉垂宮神秘書によれば、豊姫(ゆたひめ)となる。
男性神と女性神の違いは余りにも大きすぎる。
ましてや、知名度もない片田舎の玉垂神社に神功皇后が主祭神として、しかも、かつて竹野郡惣廟神社に祀られているとは思いもよらない。

祭神・神功皇后は「いつまで私を秘密に閉じ込めるのか」と悲しみ怒られた。境内に接して宮司宅がある。その先代の宮司が亡くなられた日、不思議なことが起きた。第一鳥居の扁額が、地震も強風も雨でもないのに、はずれ地に落ちた。村人は密かに急いでクレーン車を手配し、扁額を元に戻した。そして、この件は秘密にされた。しかし、この出来事を隣人が目撃していた。

表向きと本当の祭神が余りにも異なっている時、しかも歴史的祭神名となれば、本当の祭神名の公表は実に難しい。
しかし、時の流れは、いつまでも、そのままの状態にして置くことはないだろう。

現代時に、賽銭箱を置いておられる神社で、参拝者が神殿に祀られている祭神名と公表されている祭神名が異なっていることを知った時、賽銭とからめて、これを神社関係者の方々はどう言い訳をされるのであろうか。

                       水天宮シリーズ 完

格下でわかる国際情勢

[広告] 楽天市場

  • 【中古】[TCG]バディファイト H-EB02/0031レア だが奴は一番の格下(20150807)
  • ●格下品生地表面ネップ有りのため半額 在庫限り●NM106 BK(黒) 17匁 シルク タフタ ファッション スカート 布 MADE IN JAPAN 藤本商店 ファッションブランド 生地見本 ※ノークレームノーリターン対応商品
  • ●格下品生地表面ネップ有りのため半額 在庫限り●NM106 OW(オフ白) 17匁 シルク タフタ デザイナー ブラウス 生地 石川産 藤本商店 プロ用 はぎれ ※ノークレームノーリターン対応商品
  • 格下婚のススメ
  • 【中古】 格下婚のススメ /水次祥子【著】 【中古】afb
  • 【新品】【本】格下婚のススメ 水次祥子/著
関連記事