過激派でオシャレ度アップ

過激派
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そろそろ過激派は痛烈にDISっといたほうがいい

6月21日散策/鰐石と赤禰武人の碑跡
近くを流れる椹野川は、椹野川水系の本流の山口市を流れる二級河川で、仁保川と一の坂川とを合わせ山口湾に注ぐ
絶滅危惧種のスナヤツメ、アカザ、メダカが生息し、鮎も採れる

椹野川に架かる鰐石橋は、明治天皇行幸にあわせて、県最初の鉄の橋としてかけられている

その橋のたもとに、流れる川をただじっと見つめている大きな岩がふたつ、重なって現れる
むかし、下の岩の半ばまで水がきていて、ちょうど鰐が口をあけているように見えたので、このあたりを鰐石と呼ぶようになり、そしてこのとてつもなく大きな重なった岩を鰐石の重岩と呼ぶようになったと云う
岩の上には松の木である
「巌上松」と書かれている

現地の説明板によるとこの重岩の御神体は恵比寿様で、締綱の長さは13m50㎝とある
この重岩は古くから山口の名勝として有名で、大内時代山口に来た中国明の趙秩は、山口十境の詩を作ったが、その一つにこの鰐石の景を詠じたものがある

禹門点額不成龍
玉石流溪任激衝
自是煙霞釣鰲處
幾重苔蘚白雲封

禹門に点額して竜とならず
玉立流渓激衝にまかす
自らこれ烟霧はぜを釣る処
幾重の苔鮮は白雲を封ず

鎌倉時代の文献に「重岩の景観美し」と書かれ、少なくとも600年以上の昔から、この雄大な姿を保ってきたのだろう

むかしは子どもの引きつけ封じ、虫歯封じに御利益があるとして、豆腐を供えて拝む人が多かったらしい
しかし現在は商売繁盛の神様として、毎年3月にしめ縄を作り、祝詞をあげ、祀っているという
そこから少し奥へ歩いていくと、道路の角に、ふと、石碑が立っていた
赤禰武人の碑
「憂国の士 赤禰武人顕彰碑」と刻まれた碑は自然石から造られた様子でなかなか立派である

歴史を知らない私は赤禰武人なる人物がわからないのだが、説明板には

没年:慶応2.1.25(1866.3.11)
生年:天保9.1.15(1838.2.9)
幕末の長州(萩)藩の志士、奇兵隊総督
通称は乾之丞
周防国玖珂郡柱島(岩国市)の医師松崎三宅の長男

安政3年、長州藩重臣浦靭負の家臣赤根忠右衛門の養子となり月性や吉田松陰に学ぶ
翌4年梅田雲浜に従って上京し尊王攘夷運動に加わる
文久3年、高杉晋作の後を受け奇兵隊総督となり下関で外国軍艦と戦う
その後、藩論統一について過激派と意見があわず、上京して幕府に近づき長州藩の立場を説明しようとしたが、このことは幕府に内応したことと見なされて捕られ、慶応2年、この地で処刑された

と、ある
普段からここを訪れる誰かが居るのだろうか
石の袂には赤禰の資料をコピーしたものが添えられていた

あとになって調べてみると、赤禰の歴史的役割は、のちに明治政府の重鎮となった山県有朋らにより故意に抹殺されてきたらしいが、戦闘に当たっては極めて勇敢であったと云う
奇兵隊にあたって重要な存在であったことは残された史料に証されている

藩論の統一を巡り、高杉晋作らと赤禰の間に立場の違いから意見が合わなかったのは確かだろうが、赤禰は赤禰なりのやり方で藩を救おうと必死だったのではないか
敢えて縛についたのも、どうどうと申し開きをして自分の正義を理解してもらおうとしたのではないか

赤禰が反逆者だったとは言い難く、結果的に袂を分かった高杉晋作も、
「武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは残念であった」
と、病床にてその死を惜しんでいた云われている
山口に送られた赤禰は、一回の審問もなく、一言も弁明も許されぬまま、斬刑に処せられている

享年29歳

処刑後、胴体から引き出された腸は、竹に渡して鳥の餌食にされ、首は鰐石河原に晒された
赤禰が最後に着ていた獄衣の背には

「真誠似偽 偽即似真」

という無念の八文字の辞世が記されていたと云う

赤禰の後を継いだ山縣有朋は、後に総理になった時に吉田松陰などの名誉は回復されたが、奇兵隊日誌の中の赤禰が活躍したはずの四境戦争の記述を抹消し、赤禰は名誉回復されぬまま、現在に至る

そうしたこともあり、後に、赤禰の遺族は新政府に贈位や靖国神社への合祀を繰り返し請願したが、果たされることはなかった

そして赤禰の実父は狂い死にし、妻も夫の後を追ったと語られている
平成7年になり、遺族や関係者の希望で下関市吉田町東行庵(騎兵隊及び諸隊顕彰墓地)に赤禰の墓地がようやく建立された

贈位には為らなかったようだが赤禰の復権がこれで形となり、現代になり赤禰の活動が見直され始めているが、しかし、
未だ靖国神社などには祀られてはいない
幕末に散った悲運のひとりの武士の真実を、唯一、鰐石が見てきているようで、何かもの悲しい
ペコリ

あなたのお気に入りの過激派を探しに是非お立ち寄りください

「関東大震災~『朝鮮人虐殺』の真実~(工藤美代子著)」を読みました。
ご存知の方も多いでしょうが、雑誌「SAPIO」で1年余りに渡って、連載されていたものを加筆してまとめたものです。連載を目にしたときは「おっ!興味のあったテーマ」と強く惹かれながらも、以前にも言いましたように、雑誌「SAPIO」は毎号買ってはいるものの、読む暇がなく、まともに読まないで放置してしまう号も多いため、この連載は「時間ができたときにまとめて読もう」とずっと思っているうちに本著の発刊となりました(笑)。
さて、僕の昔からの関東大震災の大雑把な知識とは、「大正時代に首都圏で大地震があり、昼時で台所作業をしている最中であったため各所で火災が起こり、大震災へと繋がり膨大な死者を出した」です。そして、学校で習ったのか、NHKなどの偏向歴史番組でたまたま得た知識なのかわかりませんが、「朝鮮人が虐殺された」という知識も何となく持っていました。
以前は、大部分の普通の日本人もそうであると思いますが、数十年も前の出来事なんて「へぇ、そんなことがあったんだ」で済ますものだと思います。僕もそうでしたが、特に10数年前からの中国や韓国での反日騒ぎを目にして、「一体、この人たちは何でそんな昔のことを今も根に持っているんだ!?」と理解不能でした。ただ、最近は身近に中国人&韓国人留学生が増えたこともあり、数年前の中国の「反日デモ」をきっかけとして、近代史書を読み漁り、黄文雄著の「日中戦争 真実の歴史~今こそ中国人に突きつける~」を読んだことが大きな転換点になったことはこれまでに何度も述べたとおりです。馬鹿みたいに近代史の本を読みましたが、「関東大震災」をテーマにした本は手にする機会がありませんでした。ただ、先の敗戦時の混乱に乗じた在日朝鮮人の暴挙を知ることによって、「関東大震災時の朝鮮人虐殺」という知識は、「どうせ震災の混乱に乗じて、朝鮮人が暴挙の限りを尽くしたことへの報復だろう」という健全な認識に変わることは容易でした。
以前、身近にいた韓国人留学生(女性)で、極めて「キムチ・パワーの強い韓国人」(負けん気が強く、とにかく日本にだけは負けないというスピリットの持ち主)がいました。例えば、こんなやりとりがありました。ある寒い冬の帰り道、僕が「韓国の冬の気温はどのくらいなの?」と訊くと、「マイナス○℃くらい」というので、「へぇ、韓国の方が日本よりも寒いんだね」と何げなく返すと、「韓国にはオンドル(床暖房)があるから日本の方が寒い!!」とムキになってきました(苦笑)。そんな韓国人とある時、たまたま(?)歴史や竹島の話になったのです。そこで、僕は徹底的に論破してやったのです(コツは相手よりも熱くならないで論理的にねじ伏せることと相手が弱気になったらたまにフォローを入れてあげることでしょうか)。すると、その娘はそれまでのキムチ・パワー全開から明らかに表情を変えて、「実は・・・」と切り出してきた。そして、次に出てきた言葉が、「実は・・・私のお祖母さんは関東大震災が起きるまで、東京の青山に住んでいた」でした。その娘の表情からして、明らかにキムチ・パワーが消えて、「私のお祖母さんは日本に住んでいたんですよ」と親近感を得ようという発言にも思えましたが、「関東大震災時の朝鮮人虐殺」に話が及ぶ可能性もあります。上述したような「どうせ、朝鮮人が暴挙の限りを尽くしたことへの」云々という適当な反論をすることはできましたが、知識武装は不十分だったので、僕は「マズい!」と身構えました(笑)。ところが、その娘の次に出てきた言葉が、「凄いと思いません?」でした。「へ?」と思わず呆気に取られると、「関東大震災が起きて、家が焼けて住む家がなくなったから朝鮮半島に帰ったんです。もし、その時、朝鮮半島に帰らなかったら、お祖父さんとも出会えなくて、そうしたら、私は生まれなかったんですよ。凄いと思いませんか?」と言って、「虐殺」の「ぎゃ」の字も出なかったので拍子抜けしてしまいました(笑)。
さて、前置きが長くなりましたが、本書に戻りましょう。まず、最初に一言だけ言っておきます。
アベコベ史観よ、さようなら!!
はい、GHQ占領下の日本人洗脳政策(いわゆる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」)、そして、戦後の日教組教育による自虐史観の浸透によって、史実がすべてアベコベに転換されて、すべて戦前の日本が悪いという史観が刷り込まれてきました。「中国」が日本に対して一方的に仕掛けてきた「シナ事変(『日中戦争』)」が何故か「日本の中国侵略」とされたり、西洋諸国に侵略され植民地化された東南アジア諸国を日本が西洋の植民地支配から解放する「大東亜戦争」が何故か「日本のアジア侵略」の「太平洋戦争」とされたり、長年の満州問題の結果である満州事変が、日本の「侵略戦争」の発端とされたり・・・。
まあ、手っ取り早く、「関東大震災(1923年)時の朝鮮人虐殺」の実態をいきなりまとめたいと思います。
時代背景から言うと、1917年にロシア革命(共産主義革命)が起き、それに触発されるように1919年に朝鮮半島で「3.1独立運動」が起きます。ちなみにこれは35年の日韓併合時代の最大の独立運動で、今の韓国の憲法の前文でも記されるほど重要な運動とされています(その後は大規模な運動はなかったのですが・・・)。その後、関東大震災が起きるまでの数年間、上海に拠点を置いた朝鮮人の独立運動過激派(全朝鮮人のごく一部ですが)が日本で多くの犯罪やテロ活動、テロ未遂を繰り返します。まあ、今でいうところのアルカイダですよ。共産主義者(社会主義者)と朝鮮原理主義者(独立運動過激派)がお互い利用し合うように協調していったのです。そんなわけで関東大震災が起きる前から、日本人の間で朝鮮過激派に対する警戒心が強まっていったのです。そして、1923年9月1日、首都圏で大地震が起き、混乱に乗じて、既に日本国内に集結していた朝鮮人過激派があらゆるテロ活動を実行に移したのです。先に、「昼時で台所作業をしている最中であったため各所で火災」と書きました。もちろん、そうした要因もあったでしょうが、朝鮮人過激派が首都圏を放火して回ったことも大きな要因なのです。そして、それだけでなく震災の混乱に乗じて、朝鮮人テロリストが殺人、強姦、掠奪、爆弾の投下(!)といった悪事の限りを尽くしたため、それに対して、首都圏の各地住民が、自ら自警団を結成し、朝鮮人過激派に対抗するために自衛活動を実施し、抵抗し、「朝鮮人虐殺」と呼ばれる朝鮮人テロリスト殺害に繋がったのです。もちろん、筆者も繰り返し強調していますが、それによって、無辜の朝鮮人も巻き添えにあった件もあったでしょうが、アルカイダの自爆テロがあったが故に駐イラク米軍が時に無辜のイラク人を誤って殺害したのと同じようなものと考えるべきでしょう。まあ、厳密に言えば、イラクの米軍の場合は自らが勝手に始めた戦争だからアメリカの自業自得ですが、朝鮮人過激派のテロ活動によって、無辜の朝鮮人が殺されてしまったことは朝鮮人の自業自得ともいえる悲劇でしょう。
さて、先に「既に日本国内に集結していた朝鮮人過激派があらゆるテロ活動を実行に移した」と書きました。何故、当時、彼らは日本国内に集結していたのでしょうか?実は、この年の11月に皇太子(昭和天皇)のご成婚儀式が行われることが決まっていて、皇太子(昭和天皇)を暗殺するために朝鮮人テロリストが集結していたのです。ところが、思ってもみないときに大地震が起き、首都圏が大混乱に陥ったため、それに乗じて、テロ活動を開始したのです。
ところが、現在の「『正しい』歴史認識」においては、「朝鮮人が暴動を起こしているという流言蜚語(デマ)が流されたため、それに躍らされた日本人がかねてから差別していた無辜の朝鮮人を大量虐殺した」とされてしまっています。ただ、本書を読んで驚いたことは、「流言蜚語(デマ)」説の発端は当時の日本政府も絡んでいたということです。
運悪く、震災数日前、時の加藤友三郎首相が急死したため、急遽、山本権兵衛に首相の大命が下りつつも組閣ができていない時期に大地震が起きたため、震災時は政治の空白期間でした。震災が起き、急いで内務大臣に就任したのが後藤新平である。「台湾近代化の父」とも言われる、この後藤新平が実は「流言蜚語」説の創設者と言っても過言ではないから驚きです。後藤は何を考えていたのか?震災直後は、朝鮮人暴動に対する自衛のため各地住民が自ら自警団を結成して自衛に当たりましたが、警察&軍隊の体制が整いつつありました。そして、朝鮮人暴動に対し、血眼になっている住民が時に無辜の朝鮮人を殺害することも稀にあったため、それによって、皇太子(昭和天皇)暗殺を企む朝鮮人過激派を刺激したくなかったということです。そして、後藤は内務相の権限により、徐々に復興しつつあったメディアを使って情報操作までしているから驚きです。そこで、「朝鮮人暴動は『流言蜚語』に過ぎないから、自警団は武装解除せよ。後は警察と軍隊に任せよ」「朝鮮人は皆善良だ」といった報道が飛び交います。「ボランティアで街の復旧のために汗を流す朝鮮人」という美談まで報じられます。もちろん、言うまでもありませんが、街の復旧のために給料を貰っていた日本人は一人もいません(笑)。おまけに現在では、そうした朝鮮人は「強制労働」させられたと非難する輩がいるんですから馬鹿らしいとしか言いようがありません。また、無辜の朝鮮人が朝鮮人テロリストと間違えられて危害を加えられないように、日本政府が徹底的に保護し、各地の施設に誘導されて、食糧や衣服なども配給されています。馬鹿らしいことに、そうした朝鮮人は「強制連行」されたと非難する輩が今ではいます・・・。言うまでもありませんが、被災した大半の日本人には食糧や衣服や住居も思うようになりませんでした。ちなみに首都圏近郊に1万人弱の朝鮮人が住んでいましたが、日本政府がこのように保護した朝鮮人は6800人です。「残りは虐殺したのか?」と言う輩もいそうですが、保護施設に入らない朝鮮人もいましたし、当然のことながら震災によって亡くなった朝鮮人も多数いたでしょう。朝鮮人だけが不死身じゃないからです(笑)。
本書には当時の報道記事、政府公文書(イギリス政府のものもあり)など様々な文献(虐殺説を流布させた文献も含む)を紹介しつつ、被災者の死体写真に勝手なキャプションが付けられて「関東大震災の朝鮮人虐殺」の証拠とされていることへの簡単な論破も記されています。それにしても「南京大虐殺」神話の写真もそうですけど、こうした古典的なプロパガンダはいつになっても続きますね。例えば、2002年に発行された「関東大震災と朝鮮人虐殺(山岸秀著・早稲田出版)」という本でも展開されています。まあ、死体の写真なんて見たこともないウブな人は、死体写真を見せられると衝撃を受けて、勝手な説明を受けるだけで真に受けてしまうんでしょうか。最近のアフガニスタンでのテロによる死者の写真に「南京大虐殺で日本軍に殺害された中国の民間人」なんてキャプションをつけても真に受けてしまいそうです(笑)。
あと、1924年、在京英国大使館が本国に送った文書も興味深いです。そこには「横浜の英国総領事が郵送で受け取った『朝鮮独立運動の朝鮮人』発行の小冊子とチラシをここに送付します。(略)不幸な出来事はこの小冊子の筆者によって著しく誇張されており(略)」として、送付された朝鮮人がばら撒いた反日プロパガンダのアジビラからもちょっと抜粋してみたいと思います。
「原野で道に迷った羊が獰猛な野獣の餌食になったように、自由を失った人間は抑圧するものの犠牲になった。日本では大震災のさなかに、多数の罪なき朝鮮人が何の挑発行為や大義もなしに血に飢えた日本人によって虐殺された。日本人が犯した恐るべき残虐行為の証拠は、以前は入手できなかった。日本政府が生き残り朝鮮人による調査を一切禁じたからだ。(略)1923年9月1日、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、『朝鮮人の老若男女を街角で見かけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ』と指示した。無線で命令が出されるや、悪魔のような殺し屋が、銃、刀、火かき棒、斧、棍棒など利用できるあらゆる武器を手に、四方に散らばり街頭や家々、森、川船、丘陵地帯などで朝鮮人狩りをした(略:以後、中国式・朝鮮式の残虐な殺戮描写が続く)」
呆れてものが言えない・・・。中国人と朝鮮人の発想は驚くほど似ている。中国のプロパガンダの最高傑作「南京大虐殺」も似たような描写です。そして、更に始末に終えないのは、日本人左翼や現在の中国人&朝鮮人はこうした宣伝も史実として真に受けてしまうことです(苦笑)。
おそらく今後も朝日新聞(テレビ朝日)や毎日新聞(TBS)やNHKといった左翼大メディア様は「関東大震災と朝鮮人虐殺」という虚構の神話を宣伝し続けるのでしょうが、震災時の毎日新聞はどのように報じていたのでしょうか。毎日新聞の前身である「東京日日新聞」(当時、倒壊を逃れた数少ないメディア)の9月3日の報道を見てみます(基本的に原文まま)。
【不逞鮮人 各所に放火 帝都に戒厳令を布く】「(略)一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり(略)、当市内鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり(略)、現行犯として検挙したがいずれも不逞鮮人である」※不逞(てい)鮮人・・・(一部の)悪質な朝鮮人。
【鮮人 いたる所めったぎりを働く 二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す】「今回の凶変を見たる不平鮮人の一味は避難せる至る所の空家等にあたるを幸ひ放火しておることが判り、各所では二日朝来警戒を厳にせる折から、午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ辛うじて追い散らしてその12を逮捕したが、この他、放火の現場を見つけ取り押さえ、又は追い散らしたもの数しれず(略)、二百名の鮮人が抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し(略)、軍隊側の応援を求めた(略)」
昨今、完全に朝鮮人に支配されている観のある毎日新聞(TBS)は当時のこうした自分たちの報道をどう捉えるのだろうか。それらを必死に覆い隠して、朝鮮人テロリストの暴動という流言蜚語に躍らされた「馬鹿で残忍な」日本人が「善良な」朝鮮人を手当たり次第に虐殺したとでっち上げ続ける気であろうか。
当時の警察の内部文書(各地への緊急電)にも次のようなものがある。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。(略)朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加えられたし」
そうした朝鮮人テロリストから家族を、地域社会を守ろうとして自発的に各地域で結成されたのが自警団です。反日左翼の虚言作家、大江健三郎は後に「ウルトラナショナリズムの異様な突出」と酷評していますが、当時、事態の沈静化を計ろうとした後藤新平内務相の前の内務大臣である水野錬太郎は後に次のように書き綴っています。
「この自警団なるものは官の命令によるにあらず、人の勧めによるにあらずして期せずして全市区に同時に起こったので、これこそ真の市民自治自衛の精神の結果であると思う。しかも自警団員の多くは各自震災の厄を受け、疲労困憊せるにもかかわらず、自己並びに隣人の安全に期するために犠牲的精神をもって起こったものである。もちろん、自警団員中には時に軌道を逸し、不穏な行為をなし、非違の行動を敢てしたものもあった。(略)彼らは只徒らに殺傷せんがために殺傷したるにあらず、当時の実情に徴すれば、自己並びに自己の夫人を援護するにはこれによる他なしとの心より出でたものもあろう」
また、大曲駒村(おおまがりくそん)という俳人も以下のように記しています。
「今回の震災ほど官民一致して事に当たったのを、余はかつて目撃したことはない。これは帰するところ、人力をもって天災にあたるという覚悟から来たものに他ならないのである」
大正期は「坂の上の雲」である日露戦争に勝利した後、左翼思想が蔓延した時期です。ロシア革命の思想も入ってきて、「大正デモクラシー」というリベラルな空気に溢れたのです。言ってみれば、「坂の上の雲」として経済大国に成り上がった後、バブル崩壊によって迎えた平成期に近いものがあるでしょう。そんな中、地域の住民が一体となって、自己犠牲の精神によって自発的に自衛に当たったことは個人的には素晴らしいと思います。ちなみに井伏鱒二(作家)も自伝長編の中で、「女子供は別として、仮にも男は、それぞれ自警団の仲間入りをしなくてはいけないのである。暴漢騒ぎで誰しも気が立っていた」と記しています。また、当時64歳の内村鑑三(「代表的日本人」の著者、キリスト教思想家)も息子で医学博士の内村祐之と一緒に夜警に当たっているほどです。今のニホン人にそんな義侠心や公心や団結力が残っているのか、地域社会でそんなことができるかのかどうか不安がありますね。
さて、本書とは関係がないですけど、GHQ占領下、吉田茂首相(当時)がマッカーサーに送った書簡があります。
「朝鮮人移住者の問題に関しては、早急に解決を図らなければなりません。彼らは、総数100万に近く、その約半数は不法入国であります。これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。(略)朝鮮人の中に犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります」
さすがの卓見です。こうした吉田茂の願いが聞き入られなかったがために、戦後日本の問題点が今に至っても続いているのです。何故、日本の左翼と朝鮮人が密接な関係にあるのかわかると思います。
あと、念のために言っておきますが、僕は何も民族差別をここで主張しようとしているのではありません。その手の軽薄な排他的ナショナリズムは毛嫌いしています。そのため、在日朝鮮人が日本国民としてのアイデンティティーを持って、日本国家及び天皇への忠誠を誓うなら、彼らが日本に帰化するということにも全く反対していません。ただ、現在の在日朝鮮人はどうでしょうか。母国へ帰るわけでもなく、日本に帰化するのでもなく、ただ「在日特権」を謳歌し、日本の左翼と結託して反日左翼運動を煽動し、遂には政権与党となった民主党と連携して、更なる「在日特権」を得ようし、民族の「恨(ハン)」を晴らさんがべく、日本を弱体化し、いずれ日本をかつての朝鮮のように亡国へと導こうとさせているようにしか思えません。それ故に、僕は仮に善良であっても、どうも今のように「在日特権」を謳歌する在日朝鮮人には不快感を持つのです。無論、それらと同類のニホン人に対してもです。
さて、最後に本書から抜粋します。
「日本人にとっても、貧しくとも真剣に汗を流して働いていた在日朝鮮人(注:当時は日本国民)にとっても、この大震災は不幸な出来事であった。再三述べるが、無辜の朝鮮人が命からがらの目に遭わざる得なかった例が少なくないことは承知している。生死を境とした恐怖心をはらむような状況が各自警団側にはあったのだ。それは既述のように『鮮人襲来』が真実だったためである。やや過剰と言われても、町内と家族の身の安全を最優先に考えて怪しき振る舞いの朝鮮人を難詰し、相手が反抗したり逃げ出したりすれば暴力沙汰になっても、これを押さえ込むのは自衛上、やむを得ない処置だ。そうでなければ、組織的な主義主張をもって、日本を大混乱に陥れようとするテロリストたちに組み伏せられ、町内の破滅は国家の破滅へと進んだに違いない。一方で末世の地獄とも思える大震災、大火災の打撃を受けていた市民と自警団にも心理的な混乱は起こっていただろう。だが、それももとを質せば、社会主義者と抗日民族主義者が共闘し、上層部からの指令を受け、天災に乗じ思いを遂げようとした輩がいたからだということを忘れてはならない。被害者は日本国民と大部分の無関係な朝鮮人生活者だったのだ」

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